学園ねぶたの歴史(後編その1) (2013年11月29日)

〈北村隆さんのねぶたで出陣〉
 今回は学園ねぶたの歴史後編です。1990(平成2)年から学園ねぶたの制作者が北村隆さんに替わり、現在まで続いています。今回も、学園ねぶたに最初から関わってきた、現青森山田学園ねぶた実行委員会の扇子頭である田邊友俊さん、並びに6代目ねぶた名人北村隆さんにお話を伺いました。
 学園ねぶたの運行が隔年から毎年に変わったのが1989(平成元)年から。竹浪博夫(のち魁龍、現在は比呂夫)さん制作のねぶたでの出陣でしたが、その翌年、ねぶた師は竹浪さんから北村隆さんに変更になりました。田邊さんによると、北村隆さんに決まるにあたっては以下のような経緯であったそうです。1990(平成2)年制作のねぶたも竹浪さんで、ということがなかなか決まらず、山田学園が当時竹浪さんの師匠であったねぶた師千葉作龍さんや、青森観光協会に誰かいないかと話を持っていったところ、手が空いていたのが北村兄弟であったということです。
 この決定については、北村さんによると、当時の青森山田学園理事長である木村正枝先生自らが北村隆さんのねぶた制作現場に直接依頼にきたとのことでした。この後、本来であればねぶた師の北村さんが、ねぶたの題材の案を出して、山田学園が決定するというのが一般的な流れです。しかし題材については、北村さんによると木村正枝先生が指定したということでした。題材は青森ねぶたの定番の一つ、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」でした。しかも1994(平成6)年の「宇治川の先陣あらそい(うじがわのせんじんあらそい)」まで、木村正枝先生が指定したもので、北村さんには本来ねぶた師が担当するべき題材を生み出す仕事は与えられていなかったそうです。
 皆さんは意外に思われるかもしれませんね。今でこそ田村麿賞、ねぶた大賞を始め、様々な賞を獲得し、第6代ねぶた名人にまでなった北村さんです。しかし前回のエッセイで述べたように、当時の北村さんは賞の獲得にはほとんど縁がありませんでした。ねぶた本体に関わる賞は、1981(昭和56)年に弟の北村明(蓮明)さんとの共作で制作賞を獲得したのみで、北村隆さん個人の制作では1992(平成4)年に、初めてコマツ青森から出した「道成寺(どうじょうじ)」で初めて市長賞を獲得しました。

〈木村正枝理事長のねぶたへのこだわり〉
 木村正枝理事長はどうも、ねぶたには非常にこだわりがあった方のようです。そういえば澤田繁親さんの『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』によると、竹浪さんも1989(平成元)年の学園ねぶたがデビュー作でしたが、その年に下絵は任されたものの「青春」という題名の指定があり、翌年の学園ねぶたの打合せ(結局実現しませんでしたが)では、題材は理事長が指定するということでした。こういったこだわりが、第3代ねぶた名人佐藤伝蔵さん亡き後の、1987(昭和62)年から1990(平成2)年までの山内岩蔵さん、竹浪博夫(比呂夫)さん、北村隆さんと、ねぶた師がめまぐるしく変わった理由かもしれません。
 もう一つ、木村正枝理事長のねぶたに対するこだわりを示すエピソードを、北村さんからうかがいました。1994(平成6)年の「宇治川の先陣あらそい」の制作現場でのことです。例によって題材は「宇治川の先陣あらそい」をやってほしいと理事長から指定がありました。この題材は平安時代末期の源氏と平氏の戦いでの出来事の一つです。源氏が平氏を倒す中で源氏方の主導権争いが起きました。源義仲と源頼朝の対立です。その結果京都の南、宇治川で源義仲の軍勢と源頼朝配下の源義経率いる軍勢が戦いました。この戦いの中で、源義経方の佐々木高綱と梶原景季(かじわらのかげすえ)が源頼朝から与えられた名馬生接(いけずき)・磨墨(するすみ)で宇治川を渡り、先陣を争ったという場面です。源平の戦いは青森ねぶたでも人気の題材ですが、この場面に登場する名馬がいずれも青森県東部の南部産の馬であるとされ、青森県とも関連のある題材と言えましょう。題材に馬を取り入れるのも人気があったそうです。ただし人物二人が馬に乗っている構図でもあり、北村さんにとっては非常に難しい注文でした。とにかくねぶたを作ってこれでいいかなと思っていると、理事長が現場に視察に来られ、ねぶたの武者に旗指物(戦場で武者が背中につける旗で、一種の目印になるもの)を追加してくれと注文を出したそうです。北村さんは旗をつけるとごちゃごちゃするし、あまりごちゃごちゃしたねぶたはだめだと思い、つけない予定でしたが、結局途中で旗をつけることになったそうです。注文主が下絵の段階でOKをだした後、制作途中になってさらに口をだすというのはまず無いことでもあり、北村さんはびっくりしたとおっしゃってました。このことも木村正枝理事長が、ねぶたに強いこだわりを持っていたことを物語っているように思います。
 この時期の学園ねぶたを見てみましょう。1990(平成2)年が、日本神話の日本武尊(やまとたけるのみこと)を題材にした「草薙の剣」。1991(平成3)年が、平安時代末期の源氏と平家の合戦から、那須与一(なすのよいち)を主人公にした「扇の的」。1992(平成4)年が、平安時代初期の東北地方を舞台にした、「新時代 坂上田村麿蝦夷平定(しんじだい さかのうえのたむらまろ えぞへいてい)」。1993(平成5)年が、歌舞伎ものから歌舞伎十八番の一つ、「鏡獅子(かがみじし)」。1994(平成6)年が、91年と同じく平安時代末期の源氏と平家の合戦から、「宇治川の先陣あらそい」。日本神話や源平の合戦、坂上田村麿はいずれも青森ねぶたの定番と言ってよい題材です。2013年の今年も日本神話では、立田龍宝さん(今年が大型ねぶたデビューでした)の「倭し美わし(やまとしうるわし)」(青森青年会議所)、柳谷優浩さんの「草薙の剣」(日本通運)などが日本武尊ものでしたし、千葉作龍さんの「古事記 日本創生」(サンロード青森)も日本神話が題材でした。また有賀義弘さんの「那須与一」(青森自衛隊)は源平合戦の那須与一、北村春一さんの「景清の牢破り(かげきよのろうやぶり)」も源平ものと言ってよいでしょう。坂上田村麿は、ねぶたの発祥伝説が、田村麿の蝦夷征伐の時に、敵をおびき寄せるためにつくったのがねぶたの始まりであるとされることや、この頃のねぶた大賞の最高賞が田村麿賞であることから、過去に何度もねぶたの題材に取り上げられています。ただし最近では、坂上田村麿は郷土青森の先祖を征服した侵略者であるということから、最高賞はねぶた大賞に改められ、ねぶたも坂上田村麿より、討伐される東北人の祖先である蝦夷(えみし)の人々がクローズアップされることが多いようです。歌舞伎を題材にしたものは、最近では少なくなってきています。今年のねぶたでは、諏訪真さんの「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」(ねぶた愛好会)などが歌舞伎ものですが、歌舞伎が昔と比べて縁遠くなっていることが、歌舞伎もののねぶたが少なくなっている原因かもしれません。例えば曽我兄弟の仇討という歌舞伎で人気の題材がありますが、青森ねぶたでは戦後から昭和60年代の半ばまで、ほぼ毎年と言ってよいほど制作されていましたが、今ではほとんど作られていません。歌舞伎が身近な娯楽ではなくなったとはいえ、少し淋しいような気がします。木村正枝理事長は1913(大正2)年の生まれですから、歌舞伎が身近にあった時代の人です。1993(平成5)年の「鏡獅子」も、そんなことから選んだ題材かもしれません。澤田繁親さんの『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』にも竹浪さんが2回目の山田学園のねぶたの題材を提示するにあたって、理事長が歌舞伎好きだと知って曽我兄弟を考えたと書かれています。
 以上のように、1994年までは北村隆さんが学園ねぶたを制作しましたが、そのねぶたはかなり注文主である木村正枝理事長の意向が反映されたものでした。しかしその最後の年の94年に、学園ねぶたは初めて念願の田村麿賞を受賞することになりました。

〈初めての、そして最後の田村麿賞の受賞〉
 1994(平成6)年、北村隆さん制作の「宇治川の先陣あらそい」で、学園ねぶたは青森ねぶたの最高賞である田村麿賞を初めて受賞し、あわせて2度目の跳人賞を受賞しました。
 北村さんによると、学園ねぶたとして初めて田村麿賞を取ったので、特に思い出深いねぶただそうですが、本当は別の団体で作ったものの方が個人的には好きだったそうで、まさか取るとは思っていなかった、びっくりしたというのが正直な感想でした。ただ北村さんは前年の1993(平成5)年に、「滝夜叉姫と太郎光国(たきやしゃひめとたろうみつくに)」(ダックシティ青森店)で初の田村麿賞を受賞しており、同じく93年の「象引(ぞうひき)」(コマツ青森)で商工会議所会頭賞を受賞と、北村さんの技量が評価されてきていました。学園ねぶたの田村麿賞受賞も時間の問題だったのかもしれません。
 ただし、田村麿賞はねぶた本体だけではなく、運行や跳人、囃子なども含めた総合賞です。学園の人たちも大いにバックアップしました。現青森山田学園ねぶた実行委員会の扇子頭である田邊友俊さんによると、この年のねぶたは非常にいいねぶたであったが、この頃には学園の囃子もある程度形ができていて、特に跳人の数がダントツであったそうで、特に青森大学の学生を始めとして、学園の跳人は元気だという評判がありました。特にこの時は跳人にかなり力を入れたそうで、そういうこともあって田村麿賞の受賞と跳人賞の受賞につながったようです。この年を境にして、学園ねぶたはほとんど毎年、賞に関わっていくことになります。
 ところでこの年の青森ねぶたの最高賞である田村麿賞は最後となり、翌年からは「ねぶた大賞」と名称が変更になりました。前述したように侵略者の名を郷土の祭りの最高賞に付けるのはいかがなものか、という理由でしたが、その結果学園の初めての田村麿賞受賞は、最後の田村麿受賞にもなりました。田邊さんによると最後の田村麿賞の獲得について、最後の賞だからもうどこからも取られることがないと非常に喜んだものだったそうです。また北村さんによると受賞の時はこれが最後の田村麿賞だとはわかってなかったそうです。
 この年からいよいよ北村隆さん制作の学園ねぶたが、ねぶた大賞を始め毎年のように賞を獲得していくことになるのですが、そのことは後編その2に続きます。

参考文献
青森ねぶた誌出版委員会『青森ねぶた誌』青森市 2000年
澤田繁親『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』ノースプラットフォーム 2004年
澤田繁親『竜の伝言 ねぶた師列伝』ノースプラットフォーム 2006年
青森ねぶたまつり ねぶた師北村隆公式ウェブサイト http://www.nebutakitamura.com/





第3回目 青森山田学園ねぶたの歴史(中編) (2013年07月15日)

第6代ねぶた名人北村隆さんについて
 前回は1989(平成元)年、竹浪博夫(のち魁龍、現在は比呂夫)さんのねぶたでの出陣までをお話しました。この年から学園ねぶたは、隔年での出陣から毎年の出陣になりました。ねぶた師も現在活躍中の方が制作するようになるとともに、賞の獲得にも関わるようになってきました。特に1990(平成2)年以降は、現在に至るまで北村隆さんが学園ねぶたを制作し、何度も青森ねぶたの最高賞を受賞したことはご存知かと思います。
 今回からは順序として、1990(平成2)年以降の学園ねぶたについて見ていくことになるのですが、1990年以降は学園ねぶたの歴史の中でも最も重要な時期です。青森ねぶたの最高賞である田村麿賞・ねぶた大賞を6回受賞(そのうち3回は連続受賞)、運行や跳人に関する賞も6回受賞しています。そこで1990年以降の学園ねぶたに触れる前に、その時期に学園ねぶたを制作し、昨年には第6代ねぶた名人の称号を与えられた、ねぶた師師北村隆さんについてお話しようと思います。実際に北村隆さんから貴重なお話を伺うことができたので、その内容を交えながら、北村さんがねぶた師の弟子として修行を始め、やがて学園ねぶたを制作するまでを追っていくことにします。

ねぶた師北川啓三の弟子となる
 北村隆さんは1948(昭和23)年、青森市で双子の兄として生まれました。弟は、同じくねぶた師の北村蓮明さんだということは皆さん知ってますよね。小学校4年生の時には、お兄さんや弟と友に町内ねぶたを作り始め、1962(昭和37)年、中学2年生の時に当時ねぶたの神様といわれ、後に第2代ねぶた名人となるねぶた師北川啓三さんの弟子になりました。北川啓三さんのお父さんは初代ねぶた名人の北川金三郎さんです。ですから北村隆さんは初代名人の孫弟子でもあるわけです。
 北村さんに北川啓三さんについて伺ったところ、北川さんは青森ねぶたの基本をつくった人であるとのことでした。例えば今の青森ねぶたの特徴の一つであるザンバラ髪、乱れて風になびくようなヘアースタイルですが、これを紙と骨組みでつくってねぶたに躍動感を与えたのが北川啓三さんだそうです。始めはねぶたの重要な部分である面(顔)が見えないとか批判があったそうですが、その発想はすごかったといいます。
 弟子に対する教育はどうだったのでしょうか。北村さんによると、教え方は理屈では教えない、昔の職人だから、とにかく見て覚えろという感じだったそうです。また弟子に対しては、始めから実際にねぶたを作らせるそうで、とにかくまずは好きなように、自分で手を動かしてやってみろという。ただしその時点では作り方は教えない。始めは簡単な刀の部分などから始め、その後難しい手の部分などをつくらされる。手の部分はつくる順序があるそうで、それを知っていないといくらやってもうまくはできない。とにかく弟子に自分自身で考え、悩みながら、自分の手を動かして作らせるようにしました。そしていよいよダメだという時になって、始めて師匠が来て教えてくれるというやり方だったそうです。好きなように弟子自らに作らせるのは、自分なりに考えさせるためだったそうで、北村さんもすごく悩み考えてつくったとのことです。北村さんは「今考えれば、その教え方はすごくいいと思う、考える力を養わせてくれた。逆にあまり手にとって教えるやり方だと忘れてしまい、身につかない」とおっしゃっていました。そして北川啓三さんは、できたものについてはものすごく誉めてくれたそうです。「よくやった、たいしたものだ」と。北村さんも誉められると、やる気が出てくる。やる気があれば、なんでもやらしてくれる、北川啓三さんはそんな師匠だったようです。

北村兄弟、青森ねぶたの大型ねぶたを制作
 北川啓三さんに弟子入りして4年後の1966(昭和41)年、北村隆さんは弟の明さん(現在は蓮明さん)とともに、初めて北村兄弟の名で青森青年会議所の大型ねぶたを制作し、青森ねぶたにデビューします。題名は昔の青森ねぶたでは定番の一つである歌舞伎の曾我ものから「曾我五郎小林朝比奈草摺引(そがごろう、こばやしあさひな、くさずりひき)」でした。さらに3年後の1969(昭和44)年には兄の健一さんも加わって、青森市勤労青少年サークル連絡協議会の大型ねぶた「王進と九紋龍(おうしんとくもんりゅう)」を制作します。

ねぶた師佐藤伝蔵のもとで学ぶ
 しかしこの後、北村兄弟は8年間大型ねぶたの制作から離れることになりました。この頃北村さんは北川啓三さんの所を卒業して、佐藤伝蔵さんの所でねぶた作りを教わっていたそうです。佐藤伝蔵さんも、後に第3代ねぶた名人を授与されたねぶた師で、北川啓三さんと同じく初代ねぶた名人の北川金三郎さんの弟子でした。
 佐藤伝蔵さんの教え方は、北川啓三さんとは逆の教え方で、始めからつくらせない、まずは何故これがこういう風になるのかといった、理論的なことを重んじたそうです。教え方は正反対でも、これもすごく勉強になったそうです。例えば細かい計算をしてねぶたをつくる方法があります。計算とは、ねぶた全体のうち面(顔)にの比率がどれだけ、面に対して腕はどれだけ長いかとか、腕に対して手の大きさ、足の長さはどれだけだとか、そういうことを計算してねぶたをつくることを教わりました。
 北村さんは北川啓三さんと佐藤伝蔵さんの教えの両方を取り入れており、そのうち特に構図的なことは佐藤伝蔵さんの影響を受けています。例えば佐藤伝蔵さんは構図的に新しい発想をどんどんねぶたに取り入れました。また誰もやったことのない技術とか、中間色の使い方とかも編み出しており、その作風は自由さがあり、失敗を恐れなかったそうです。一方、北川啓三さんは職人気質があり、ねぶた作りにもこうでなくてはいけないというこだわりがあったそうです。

ねぶた名人について
 すこし本題の学園ねぶたから話はそれますが、初代から3代目までのねぶた名人の話が出てきましたので、その他のねぶた名人についても北村さんにお話を伺いました。
 第4代ねぶた名人の鹿内一生さんは青森市内荒川の出身で、「我生会」というねぶた師の制作集団を立ち上げ、その弟子の方たちが現在も活躍中です。北村さんは直接教えてもらったことはないものの、ダイナミックなねぶたをつくるねぶた師だった。誰も作ったことが無いような、人形部分を非常に大きくしたねぶたを作り、前に出た手などを極端に大きくして遠近法を取り入れたりした。渇筆というかすれのある墨の使い方が荒々しさを感じさせ、その迫力もすばらしかったとのことでした。
 第5代ねぶた名人の千葉作龍さんは、北村さんと同じく昨年ねぶた名人を授与されたました。北村さんとは2歳違いですから、ほぼ同年代と言っていいでしょう。北村さんによると、代表作は歌舞伎の重要な演目の一つである「暫(しばらく)」。ちなみに千葉さんは「暫」を1969(昭和44)年、1975(昭和50)年、1994(平成6)年と3回制作しており、1975年のものは最高賞である田村麿賞を受賞しました。千葉さんのねぶたについては、あまりごちゃごちゃした、動きのあるようなねぶたはつくらない。そういう作り方をすることで模様がはっきりする。あまり動きがあるとねぶた自体がはっきりしなくなる。ねぶたは遠くから見てはっきりしなくてはいけない。遠くから見てはっきりしたねぶたは、墨の線や模様がはっきりして華麗に見える、そういうねぶたを作る人だ、とのことでした。年齢も近いので、ねぶた作りに関して話し合ったりするのですかと伺ったら、若いときは結構したが、今は酒を飲んでも一切しないということでした。
 第6代ねぶた名人の北村さんご自身についてもお聞きしました。まずねぶた名人となった感想については、名人になったからといって、以前とは特に変わることはないということでした。ねぶた師北村隆については、これからも斬新さを求めていきたい、また苦労するねぶた、手のかかるねぶたをつくっていきたい。こんなことやってもあまり意味が無いんじゃないかということも、自分ではわかっているのだが、ついついやってしまう。苦労しないとねぶたをつくった気がしない。2007(平成19)年にねぶた大賞を受賞した学園ねぶた「聖人 聖徳太子」では千手観音のねぶたを作ったが、制作に苦労した。それでもやはり作ってしまうんだとおっしゃっていました。
 なお初代ねぶた名人の北川金三郎さんについては、あまり記憶がないとのことでした。北川金三郎さんは1959(昭和34)年にねぶた名人の称号を授与され、その翌年には他界されました。北村さんが10歳の時の1958(昭和33)年が、北川金三郎さんの最後のねぶたが出陣した年でした。その2年前から北川金三郎さんのねぶたは一台のみになっていたので、そんなに印象に残っていないのかもしれません。

北村兄弟、青森ねぶたに復活
 余談が長くなりました。ねぶた師北村隆さんの話に戻します。北村さんが青森ねぶたに復活したのは1978(昭和53)年、弟の明(現在は蓮明)さんとともに制作した青森県板金工業組合の「日本武尊熊蘇退治(やまとたけるのみこと、くまそたいじ)」でした。その後、兄弟での制作を続け、1981(昭和56)年には青森県板金工業組合の「鬼神お松(きじん、おまつ)」で初めて受賞。制作賞での受賞ですから、ねぶた師としての力量が評価されたと言っていいでしょう。しかしまだこの頃は、後年の受賞歴と比べると、受賞が身近になったわけではなく、北村さんが学園ねぶたの制作を始めるまで、受賞はこの1回のみでした。この頃の心境をあらわすことばが、1983(昭和58)年の『月刊キャロット別冊「ねぶた」PART10』のねぶた師座談(北村隆さん、千葉作龍さん、穐本鴻生さんと司会が澤田繁親さん)で、北村さんの口から語られています(この座談会は澤田繁親さんの『竜の伝言 ねぶた師列伝』にも収められています)。1981(昭和56)年の制作賞受賞について「…前の年まで制作賞と田村麿賞と、くっついていたわけ、小屋に行ったら、何だかもらったって。(制作賞だけで)田村麿賞ないんだよね。がっくりした感じだったものな(笑)。何だか落ちたような感じだったな」、また田村麿賞を受賞については、「最近は、どうせもらえないんだっていう諦めがきて」と語っています。
 1984(昭和59)年には北村兄弟はそれぞれ別のねぶたを制作するようになります。北村隆さんは青森県板金工業組合と青森市PTA連合会のねぶたを制作、その3年後の1987(昭和62)年からはJRと青森市PTA連合会を制作します。そして1990(平成2)年、いよいよ青森大学のねぶた「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を北村隆さんが制作することになるのです。

今年の学園ねぶた「水滸伝 燕青と李逵」
 北村隆さん制作の学園ねぶたの歴史は、次回にまわすことにして、最後に今年の学園ねぶたについてすこし触れておきます。もう皆さんご存知だと思いますが、2013(平成25)年の学園ねぶたは「水滸伝 燕青と李逵(すいこでん えんせいとりき)」。水滸伝は、中国は宋の時代末期(西暦1100年頃)に梁山泊というとりでを拠点に活躍した108人の豪傑たちの話を題材にした物語です。日本でも昔から広く読まれ、豪傑達の絵が浮世絵師たちによって描かれてきました。青森ねぶたにおいても、昔から代表的な題材の一つとして人気がありました。北村さん自身、過去に水滸伝から史進(ししん、1969年)、張順(ちょうじゅん、1996年)、魯智深(ろちしん、1997年、2008年)、燕青(2000年)を取り上げています。特に燕青は今年で2回目になりますが、相撲の達人で梁山泊一の伊達男である燕青は、北村さんが個人的に好きな豪傑だそうです。北村さんは2000(平成12)年、「燕青、瓦投げつける(えんせい、かわらなげつける)」(JRねぶた実行委員会)を出していますが、今回の学園ねぶたは、物語の上では、その直前の場面にあたるそうです。2丁の斧を持つ暴れ者の李逵も好きな豪傑の一人で、前からずっとやってみたいと想っていたとのこと。ねぶたは奉納相撲の試合で優勝候補を破った燕青に、李逵が加わって大暴れをする場面で、見所は、燕青が持ち上げた柱にカーテンが巻きついているところが構図的に面白いのではないか、ということでした。また二人の豪傑の、伊達男と強面の対比も面白いのではないでしょうか。それでは今年の学園ねぶたをお楽しみに。

参考文献
青森ねぶた誌出版委員会『青森ねぶた誌』青森市 2000年
澤田繁親『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』ノースプラットフォーム 2004年
澤田繁親『竜の伝言 ねぶた師列伝』ノースプラットフォーム 2006年
青森ねぶたまつり ねぶた師北村隆公式ウェブサイト http://www.nebutakitamura.com/





第2回 青森山田学園ねぶたの歴史(前編) (2013年06月22日)

学園ねぶたのはじまり

 今回は学園ねぶたの歴史について、少し詳しくお話しましょう。第1回目で述べたように、学園ねぶたは青森大学の開学を記念して、1971(昭和46)年に青森大学として出陣しました。青森大学の開学は出陣に先立つ3年前の1968(昭和43)年です。何故開学から遅れること3年後の出陣となったのでしょうか。
 このあたりの経緯については、山田学園の歴史ではあまり詳しく触れられていません。そこで学園ねぶたに最初から関わってきた、現青森山田学園ねぶた実行委員会の扇子頭である田邊友俊さんにお話を伺いました。田邊さんは1969(昭和44)年4月に青森大学に入学、卒業後も学園ねぶたに関わり、1981(昭和56)年から現在まで学園ねぶたの扇子頭を担当し、まさに学園ねぶたの草創期から現在までをご存知の方です。ちなみに扇子頭は扇子持ちのリーダーということですが、扇子持ちとはねぶたの運行を誘導するための重要な役割を担当する人を指します。扇子一本とホイッスルを使って、狭い通りをねぶたを壊さずに通すことはもちろん、ねぶたを回転させたり前に倒したりして沿道の観客にねぶたの迫力や美しさを伝えたりするのが扇子持ちの役割です。ですから扇子持ちはねぶた自身にどういった魅力があるか、どのように動かせばねぶたが映えるかという、ねぶたそのものへの深い理解が求められるのです。
 田邊さんによると初期の学園ねぶたには、現在の青森県信用組合とその前身の一つである東青信用組合が大きく関わっていたということです。即ちこの頃青森山田学園の最大の後援者であった青森県信用組合が、当時の木村正枝学園理事長とねぶたを出そうという話になり、ねぶた本体は青森県信用組合が準備し、それに本学の学生が参加しようじゃないか、ということで始まったとのことでした。また第2回目の1973(昭和48)年の出陣も、ねぶた本体は青森県信用組合が準備したとのことでした。
 ただし青森県信用組合は1971(昭和46)年7月に東青、西北、中弘、三沢、三戸、七戸の県内6信用金庫が合併したものです。それ以前の青森山田学園の後援者は、青森県信用組合の前身の一つであった東青信用組合ということになります。東青信用組合は1964(昭和39)年、1968(昭和43)年、1970(昭和45)年と青森ねぶたに参加していますが、その後1971(昭和46)年から青森大学がねぶたに出陣しています。結果として東青信用組合のねぶたが同年の合併で終了し、その後を青森大学が引き継ぐという形で学園ねぶたはスタートしました。
 制作するねぶた師については、東青信用組合時代は後にねぶた名人に認定される佐藤伝蔵さんでしたが、青森大学になって山内岩蔵さんに替わりました。田邊友俊さんによると、学園関係者の清藤さんという方が佐藤伝蔵さんと面識があり、佐藤さんにねぶた師を紹介してもらったところ、佐藤さんの弟弟子である山内岩蔵さんを紹介してもらったとのことでした。
 この頃山内さんは東北電力青森支店と消防第二分団のねぶたを制作していました。東北電力青森支店は1967(昭和42)年、1968(昭和43)年、1970(昭和45)年、1972(昭和47)年の出陣で、いずれも山内さんの制作。ただし東北電力青森支店は翌年から1983(昭和58)年まではねぶたに出陣していません。一方の消防第二分団は1970(昭和45)年から毎年山内さんのねぶたで出陣することになりました。つまり山内さんは1970(昭和45)年から1973(昭和48)年までの4年間は、消防第二分団のねぶたを毎年制作し、東北電力青森支店と青森大学のねぶたを隔年で交互に制作という形になりました。これはあくまで推測ですが、東北電力青森支店が1967年、1968年と連続出陣した後、1970年、1972年と隔年の出陣になってしまい、山内さんの制作するねぶたが1971年には1台減ってしまうこと、佐藤伝蔵さんは1971(昭和46)年に新たに青森青年会議所のねぶたを制作することになったことなどから、佐藤伝蔵さんが山内岩蔵さんを紹介したのかもしれません。本来であれば山田学園としては、佐藤伝蔵さんに制作してほしかったのではないでしょうか。また現在ではねぶたを出す団体は休むことなく毎年出陣していますが、この頃は多くの団体で出陣する年もあれば、出陣しない年もあったようです。
 ちなみに佐藤伝蔵さんが東青信用組合で制作したねぶたには、1968(昭和43)年に始めて田村麿賞(現在のねぶた大賞にあたります)を受賞した「草薙の剣」がありました。その後佐藤さんは毎年のように賞候補となったとされ、様々な名作を制作して田村麿賞を何度も受賞していくことになります。
 また学園ねぶたが始めて出陣する1年前の1970(昭和45)年、佐藤さん制作の「草薙の剣」がこの年に大坂で開催されていた日本万国博覧会におけるイベント「日本の祭り」に出陣して、その豪華絢爛な姿とともに全国にその名を知られることになりました。日本万国博覧会とは、「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、世界77ヵ国が参加したアジアおよび日本で最初の国際博覧会です。高度経済成長を成し遂げた日本の象徴的な意義を持つ、1964(昭和39)年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトでもありました。アポロ11号が持ちかえった月の石が展示されたことでも注目を集めましたね。このねぶたはその年の青森ねぶたにも東青信用組合から出陣しています。
 これらのことを見ていくと、東青信用組合のねぶたを受け継いだ学園ねぶたは、ねぶた名人佐藤伝蔵さんが名を成すきっかけとなった歴史あるねぶた団体を受け継いでいるのだとも言えますね。佐藤伝蔵さんはこの後、1983(昭和58)年と1985(昭和60)年に学園ねぶたを制作することになります。
山内岩蔵さんのねぶたで出陣
 さていよいよ青森大学のねぶたが出陣となったわけですが、青森大学の学生はもちろん青森短期大学の学生も学生も参加することになりました。田邊さんによりますとねぶた衣装は最初、白地に波柄で「青森大学」と書いたものだったそうですが、短大も参加しているのに短大の名前がないのはおかしいとの声があり、緑の唐草模様に「青森大学」「青森短大」と書いたものに変更になったそうです。今の水色の衣装は三代目だそうです。
 1977(昭和52)年は青森山田学園創立60周年の記念すべき年ですが、この4回目の「寿式三番叟」(ねぶたの題材も60周年を祝うという意味合いがあります)から、学園が中心になって全てをおこなうようになったそうです。田邊さんによりますと、当時は学友会が中心になって学生の手作りねぶたみたいな感じ(ねぶたはねぶた師によるものだが、それ以外は学生の手作りという意味)でいこうということで、当時は学生で参加しないものはいないというほどに学生がすごく盛りあがったそうです。ただし、隔年運行の頃はまだ学生の数も少なく、囃子方そのものも無くて、市内の駒込町会の子どもねぶたが終わった後、そこの太鼓叩きの方が3人ほど来て、学生は笛を持っているだけで(吹ける者がいないため)、笛に関してはエンドレステープを流していたとのことです。始めて本学の自前の囃子方ができたのは1989(平成元)年のことで、応援団が囃子方をやり、7月に商工会議所でやっていた観光協会主催の正調の囃子講習会に習いにいき、それから囃子が盛りあがるようになりました。そして1993(平成5)年には学生だけで囃子方ができるようになったそうです。
 やはりねぶたを実際に出すということは大変だということがわかりますね。大学の開学から遅れること3年後に始めてねぶたの出陣となったのも、上記のような様々な事情があってのことだったろうと思われます。
 このようにねぶたの囃子の完成はすこし遅れましたが、青森ねぶた祭りへの音楽演奏での参加は、実は学園ねぶたの参加より早かったのだそうです。田邊さんによると、学園ねぶたの参加以前から、全てのねぶた運行の先頭に青森山田高校の吹奏楽が参加しており、先頭の役員団が通った後に吹奏楽、ミスねぶた、そして全てのねぶたという順序で運行されていました。しかし1990年代に入って、学園ねぶたが田村麿賞やねぶた大賞を取るようになった頃、ねぶたに関係無い鳴り物がはいるのはいかがなものか、という意見が出て中止になったということです。
第三代ねぶた名人佐藤伝蔵さんのねぶたで出陣
 1983(昭和58)年と1985(昭和60)年の2回は、後にねぶた名人の称号を与えられた佐藤伝蔵さんによるねぶたで出陣しました。この当時、佐藤伝蔵さんは計三~四台のねぶたを制作していました。青森大学(隔年での出陣)と日立連合、日本通運、日本電信電話公社(1985年からNTT)です。これまで学園ねぶたは、当時市長賞といわれたいわゆる参加賞以外に賞には縁がありませんでした。しかし佐藤伝蔵さん制作ということで賞への期待が膨らんだそうです。しかし最高の賞である田村麿賞は、両年とも同じ佐藤伝蔵さんによる日立連合に持っていかれてしまいました。さらに佐藤伝蔵さんは2回目の学園ねぶたを制作した翌年の1986(昭和61)年に急逝されました。ねぶたを制作した最後の4年間は田村麿賞を独占している時であり、非常に残念なことでした。この後1987(昭和62)年、再び山内岩蔵さんのねぶたに戻りますが、ここまでが学園ねぶたの前半期と言っていいかもしれません。
竹浪比呂夫さんのねぶたで出陣
 1989(平成元)年から学園ねぶたが大きく変わることになります。自前の囃子方ができたことは前述しましたが、その他にねぶた制作が現在活躍中のねぶた師に変わったこと、隔年での出陣だったのが毎年の出陣に変わったことです。そして賞の獲得に関わってくるようになったことでした。
 1989年のねぶた師が山内岩蔵さんから現在活躍中の竹浪博夫(のち魁龍、現在は比呂夫)さんに替わったことと、学園ねぶたの出陣が毎年になった理由は、澤田繁親氏の『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』に記されています。即ち学園ねぶたが賞を取るためにねぶた師の千葉作龍さんにねぶた制作を依頼し、千葉さんが弟子である竹浪さんを紹介したこと、また1990(平成2)年から富士通がスポンサーにつくことになり出陣が隔年から毎年になったということです。ちなみに竹浪さんの大型ねぶたでのデビューは、1989年の学園ねぶたということになります。ねぶたの題名には「青春」という、これまでのねぶたに見られない言葉が入っていますが、これは当時の木村正枝理事長の、学生にふさわしい題材でということで、「青春」という題名になったそうです。そしてこの年、ついに本学が「跳人賞」を受賞することになります。
 田邊さんによると、この年は参加学生全員にガガシコを持たせたそうで、皆でガガシコをもって「ラッセラー、ラッセラー、ガガシコガンガン」とやらせたところ、満場一致で「跳人賞」の獲得となったのだそうです。ガガシコは近年あまり見かけなくなりましたが、ブリキのコップの浅くなったような形の器のことですね。昔は運行中にガガシコで水やお酒を飲んだりお握りを入れる器に使ったり、お囃子のときに叩いたりしていたものです。青森市出身の版画家で、かつて青森短大・大学で教えておられた佐藤米次郎さんが、青森大学出版部で出していた雑誌『青森NOW』の創刊号に「現代青森侫武多考」という記事を書いていますが、その中に佐藤さんの跳人の挿絵があり、ガガシコについて「ガガシコはブリキ製の打楽器だが、杯や食器の代用になる」と書いています。今はテブリガネが主流になっていますが、本来お山参詣の囃子に使われていたテブリガネは旧市内では使わなかったそうで、ガガシコが主に使われていたそうです。ガガシコをもう一度見なおしてみるのもいいかもしれません。
 田邊友俊さんには学園ねぶたの歴史について、貴重なお話を伺うことができました。この場を借りてお礼を申し上げます。次回は1990(平成2)年以降の学園ねぶたを見ていこうと思います。ねぶた師は現在も学園ねぶたの制作をしておられるねぶた名人北村隆さんです。いよいよ学園ねぶたが田村麿賞・ねぶた大賞を受賞することになります。田邊さんのお話は次回にも続きます。お楽しみに。
参考文献
佐藤米次郎「現代青森侫武多考」『青森NOW』創刊号 1971年8月
青森ねぶた誌出版委員会『青森ねぶた誌』青森市 2000年
青森観光協会創立50年記念事業実行委員会記念誌出版委員会編『青森観光協会50年史:1952~2001』青森観光協会 2001年
澤田繁親『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』ノースプラットフォーム 2004年

澤田繁親『竜の伝言 ねぶた師列伝』ノースプラットフォーム 2006年





第1回「ねぶたの歴史」 (2013年05月30日)

青森短期大学 地域創造学科
教授 野﨑剛

 

 はじめに:「学園ねぶた」出陣について

 

青森山田学園が青森ねぶたに出陣して今年で42年、通算33回目の出陣になります。

初めての出陣は、1971(昭和46)年で、「青森大学」の名前でした。青森大学の開学は、出陣に先立つ3年前の1968(昭和43)年ですが、『青森山田学園八十年史 ばら色の二十一世紀へ』(1997年発行)によると、「青森大学の開学を記念して出陣してから、今年で十八回を数えた」とあり、ねぶた出陣と大学の開学とが大きく関わっていたことがわかります。以来、1987(昭和62)年までは「青森大学」として隔年で出陣してきました。やがて、1989年の平成になってからは毎年の出陣を果たしてきています。そして2003(平成15)年からは、名前を変えて「青森山田学園」として出陣しています。

一口に42年間33回の出陣と言っても、今日まで続けてこられたのは、その間、本学園の学生、生徒、園児、教職員の皆さんは勿論、ねぶた師のご努力、そして何よりも、物心両面にわたって応援してくださった地域の方々の支えとご理解を得て、今日まで続けてこられたものと思います。

そこで、もう一度歴史ある「学園ねぶた」(現在は青森山田学園で出陣しているので、以下「学園ねぶた」と総称します)を見直してみるのも良いのではないかということで、これから数回にわたって青森ねぶたと「学園ねぶた」について見ていこうと考えております。

 

「学園ねぶた」一覧

 

まず「学園ねぶた」の歴史を、『青森ねぶた誌』の「戦後大型ねぶた一覧」から、出陣年、題名、制作したねぶた師等で見ていきましょう。

出陣ねぶた題名 ねぶた師 受賞
1971(昭和46) 連獅子 山内岩蔵 市長賞
1973(昭和48) 牛若丸と弁慶(五条橋) 市長賞
1975(昭和50) 車引(車曳き) 市長賞
1977(昭和52) 三番叟(寿式三番叟) 市長賞
1979(昭和54) 宇治川の先陣争い 市長賞
1981(昭和56) 天の岩戸開き 市長賞
1983(昭和58) 南総里見八犬伝より芳流閣上の闘い 佐藤伝蔵 市長賞
1985(昭和60) 曽我物語富士の誉 佐藤伝蔵 市長賞
1987(昭和62) 不動 山内岩蔵 市長賞
1989(平成元) 青春(快童公時・青春) 竹浪博夫(現在は竹浪比呂央) 跳人賞、市長賞
1990(平成2) 草薙剣 北村隆
1991(平成3) 扇の的
1992(平成4) 新時代坂上田村麿蝦夷平定
1993(平成5) 鏡獅子
1994(平成6) 宇治川の先陣あらそい 田村麿賞、跳人賞
1995(平成7) 日本武尊と山神 知事賞
1996(平成8) 張順水門を破る ねぶた大賞
1997(平成9) 神武東征 知事賞、運行・跳人賞
1998(平成10) 朝比奈三郎・城門を破る ねぶた大賞、運行・跳人賞
1999(平成11) 雷神菅原道真 知事賞
2000(平成12) 役小角
2001(平成13) 蒙古襲来 市長賞
2002(平成14) 木曽義仲火牛の夜襲 商工会議所会頭賞、運行・跳人賞
2003(平成15) 土岐元貞猪鼻山魔王投げ倒す 知事賞、制作賞
2004(平成16) 安倍晴明と四神聖獣 知事賞、制作賞
2005(平成17) 袴垂保輔と鬼童丸 観光コンベンション協会会長賞
2006(平成18) 日天水天 ねぶた大賞、運行・跳人賞、最優秀制作者賞
2007(平成19) 聖人聖徳太子 ねぶた大賞、運行・跳人賞、最優秀制作者賞
2008(平成20) 忠臣児島髙徳と范蠡 ねぶた大賞、最優秀制作者賞
2009(平成21) 朝比奈地獄破り 市長賞、最優秀制作者賞
2010(平成22) 碁盤忠信
2011(平成23) 毘沙門天と文殊菩薩
2012(平成24) 卑弥呼と狗奴国の戦い

※ねぶた題名の( )内は青森山田学園創立八十年記念誌『青森山田学園八十年史 ばら色の二十一世紀へ』所収の学園ねぶたの題名です。

表を見ると学園ねぶたの流れは1989(平成元)年を中心に、前半と後半にわかれるような気がします。前半は隔年の出陣でしたが、後半になると現在も活躍中のねぶた師の手によるねぶたで、毎年出陣するようになりました。1989年は、ねぶた師の世代交代の時期といえましょう。特に1990(平成2)年からは北村隆さんのねぶたで出陣しており、今年で23年連続で北村さんが手掛けています。また様々な賞を受賞していったのも、後半の時期にあたります(最初の頃の市長賞は参加賞にあたるものでした)。

 

青森ねぶたの歴史

 

ところで、青森ねぶたは、どのようにして現在に至っているのでしょうか。すこし青森ねぶたの歴史について見ていくことにしましょう。
青森ねぶたは1980(昭和55)年、弘前ねぷたとともに国の重要無形民俗文化財に指定されました。今や日本を代表する祭りの一つと言っていいでしょう。その祭りの起源は、歴史的にははっきりとしておりませんが、少なくとも江戸時代から様々な発展を遂げ、現在の形になってきたと考えられています。

 

1)江戸から明治

 

青森ねぶたに関する最も古い記録は、1842(天保13)年とされます。ただしその記録は、今年は青森ではねぶたが出なかった(『青森沿革史』)』とか、秋田県能代の七夕・ねむた流しを見て、これと同じものが津軽・弘前・黒石から青森の辺りにもあるそうだ(『奥の枝折』)、という内容でしかないのですが。ただ、さらに遡って1700年代の始め頃、青森市油川では弘前の真似をしてねぶたを運行したと解説するものもあるのですが、これは残念なことにどの史料をもとに述べているのか、出典が明らかではありません。とにかく、史料の上では少なくとも1800年代の始め頃には青森でもねぶた祭りがおこなわれていたとされています。

明治になると青森ねぶたは大型化し、1869(明治2)年には高さ11間(約20m)で、100人以上で担いだ(昔は担ぐのが一般的でした)ものが出たとされています(『青森沿革史』)。つまり現在の五所川原立佞武多と同じ位の巨大ねぶたが出ていたんですね。この時すでにねぶたの題材として、「牛若丸と天狗」とか、古代神話から「神宮皇后」といった現在の題材に通じる題材がつくられていたようです。

しかし1873(明治6)年から9年間、ねぶたは野蛮な風習であるとして、ねぶた禁止令が出された時もありました。その後、取締規則の下での運行が実施され、ねぶたのサイズも小型化していきます。1882(明治15)年には高さ約5.5 m、幅約4mまで、1898(明治31)年には、高さ約2.4 m以下で、4人以下で担ぐものとしました(実際は5 mくらいのねぶたが、その後も運行されたようです)。これらのことは市中に電線が張り巡らされたという社会状況も関係しており、青森だけでなく、全国の祭りの山車などが江戸から明治に巨大化しながら、その後再び小型化していったようです。

ちなみに、1871(明治4)年には青森に県庁が置かれ、1873(明治6)年には青函定期航路が就航し、1891(明治24)年には東北本線が全通、1894(明治27)年奥羽本線が開通、1898(明治31)年青森町が青森市にと、青森市が政治経済の中心として発展していった時期に当たり、青森ねぶたも盛り上がっていったことが伺えます。

 

2)大正から戦前

 

それまで文字による記録はあっても絵などの記録はなかった青森ねぶたですが、大正から昭和になると写真の普及で、写真に写された青森ねぶたがかなり見うけられるようになります。また最近青森県立美術館で特集され話題になった、考現学を提唱した青森県出身の今和次郎さんの弟である画家の今純三さんが、昭和初期の青森ねぶたのスケッチや文章を『民俗藝術』(造形美術号 第1巻第11号)に「ネブタからオ山サンケまで」というタイトルで掲載しています。

しかし1937(昭和12)年から1945(昭和20)年まで、戦争の拡大とともにねぶたは中止になりました。ただし1944(昭和19)年に一度だけ戦意高揚のためとして運行されましたが。

 

3)戦後の発展、ねぶた師の貢献

 

戦後復活した青森ねぶたは、1947(昭和22)年に「戦災復興港祭り」としておこなわれ、以後「青森港祭り」という名称で開催されて、1958(昭和33)年に「青森ねぶた祭り」となり、現在に至っています。戦後のねぶたは再び大型化していくことになります。もちろん電線が撤去されたわけではありませんから、限られた範囲でいかに大きくねぶたを見せるかという方向に、です。運行に広い道路が利用されたことで横幅が広くなったといわれ、また本来、ねぶたの土台部分にあった高欄や額、開きといった装飾が取り払われたため、より大きな迫力あるねぶた人形が制作できるようになりました。それまで縦方向に高かったねぶたが、今見るような横に長いねぶたに変化していったのです。

人形型のねぶた(組ねぶた)は弘前や五所川原、黒石などでも見られますが、青森のねぶたはやはり青森独自の構造を特徴として発展し、戦後になって完成したと言えます。青森ねぶたの完成には、ねぶた師と呼ばれるねぶた制作者の方々の技術と工夫も大きく貢献しています。現在「ねぶた名人」の称号をもつ北川金三郎さん、北川啓三さん、佐藤伝蔵さん、鹿内一生さん(いずれも故人)をはじめ、優れたねぶた師が輩出し、ねぶたに魂を込めて現在の青森ねぶたが確立されたのです。現在大型ねぶたを制作しているねぶた師は、これらの「ねぶた名人」の弟子や孫弟子の世代の方々です。特に今年は千葉作龍さんと、「学園ねぶた」を制作している北村隆さんが22年ぶりに名誉ある「ねぶた名人」に認定されることになりました。お二人ともおめでとうございます。最近若いねぶた師が活躍するようになったことと合わせて、青森ねぶたも新しい時代に入ったと言えるのかもしれません。

 

さいごに

 

「学園ねぶた」も、国の重要無形文化財である「青森ねぶた」の伝統を受け継ぎつつ、新しい試みも取り入れて、その歴史を刻んでいます。例えば、今年の「学園ねぶた」は第6代「ねぶた名人」北村隆さんによる「卑弥呼(ひみこ)と狗奴国(くなこく)の戦い」です。卑弥呼といえば日本古代3世紀の邪馬台国の女王です。日本神話はもちろん、最近では縄文時代が取り上げられることは多いのですが、邪馬台国の時代が題材として取り上げられるのは、はじめてのことです。はたしてどんなねぶたになるのか楽しみですね。

参考文献:

  • 学校法人青森山田学園創立八十年記念誌発行委員会『青森山田学園八十年史 ばら色の二十一世紀へ』青森大学出版局 1997年
  • 青森ねぶた誌出版委員会『青森ねぶた誌』青森市 2000年
  • 青森観光協会創立50年記念事業実行委員会記念誌出版委員会編『青森観光協会50史:1952〜2001』青森観光協会 2001年





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