第2回 青森山田学園ねぶたの歴史(前編) (2013年06月22日)

学園ねぶたのはじまり

 今回は学園ねぶたの歴史について、少し詳しくお話しましょう。第1回目で述べたように、学園ねぶたは青森大学の開学を記念して、1971(昭和46)年に青森大学として出陣しました。青森大学の開学は出陣に先立つ3年前の1968(昭和43)年です。何故開学から遅れること3年後の出陣となったのでしょうか。
 このあたりの経緯については、山田学園の歴史ではあまり詳しく触れられていません。そこで学園ねぶたに最初から関わってきた、現青森山田学園ねぶた実行委員会の扇子頭である田邊友俊さんにお話を伺いました。田邊さんは1969(昭和44)年4月に青森大学に入学、卒業後も学園ねぶたに関わり、1981(昭和56)年から現在まで学園ねぶたの扇子頭を担当し、まさに学園ねぶたの草創期から現在までをご存知の方です。ちなみに扇子頭は扇子持ちのリーダーということですが、扇子持ちとはねぶたの運行を誘導するための重要な役割を担当する人を指します。扇子一本とホイッスルを使って、狭い通りをねぶたを壊さずに通すことはもちろん、ねぶたを回転させたり前に倒したりして沿道の観客にねぶたの迫力や美しさを伝えたりするのが扇子持ちの役割です。ですから扇子持ちはねぶた自身にどういった魅力があるか、どのように動かせばねぶたが映えるかという、ねぶたそのものへの深い理解が求められるのです。
 田邊さんによると初期の学園ねぶたには、現在の青森県信用組合とその前身の一つである東青信用組合が大きく関わっていたということです。即ちこの頃青森山田学園の最大の後援者であった青森県信用組合が、当時の木村正枝学園理事長とねぶたを出そうという話になり、ねぶた本体は青森県信用組合が準備し、それに本学の学生が参加しようじゃないか、ということで始まったとのことでした。また第2回目の1973(昭和48)年の出陣も、ねぶた本体は青森県信用組合が準備したとのことでした。
 ただし青森県信用組合は1971(昭和46)年7月に東青、西北、中弘、三沢、三戸、七戸の県内6信用金庫が合併したものです。それ以前の青森山田学園の後援者は、青森県信用組合の前身の一つであった東青信用組合ということになります。東青信用組合は1964(昭和39)年、1968(昭和43)年、1970(昭和45)年と青森ねぶたに参加していますが、その後1971(昭和46)年から青森大学がねぶたに出陣しています。結果として東青信用組合のねぶたが同年の合併で終了し、その後を青森大学が引き継ぐという形で学園ねぶたはスタートしました。
 制作するねぶた師については、東青信用組合時代は後にねぶた名人に認定される佐藤伝蔵さんでしたが、青森大学になって山内岩蔵さんに替わりました。田邊友俊さんによると、学園関係者の清藤さんという方が佐藤伝蔵さんと面識があり、佐藤さんにねぶた師を紹介してもらったところ、佐藤さんの弟弟子である山内岩蔵さんを紹介してもらったとのことでした。
 この頃山内さんは東北電力青森支店と消防第二分団のねぶたを制作していました。東北電力青森支店は1967(昭和42)年、1968(昭和43)年、1970(昭和45)年、1972(昭和47)年の出陣で、いずれも山内さんの制作。ただし東北電力青森支店は翌年から1983(昭和58)年まではねぶたに出陣していません。一方の消防第二分団は1970(昭和45)年から毎年山内さんのねぶたで出陣することになりました。つまり山内さんは1970(昭和45)年から1973(昭和48)年までの4年間は、消防第二分団のねぶたを毎年制作し、東北電力青森支店と青森大学のねぶたを隔年で交互に制作という形になりました。これはあくまで推測ですが、東北電力青森支店が1967年、1968年と連続出陣した後、1970年、1972年と隔年の出陣になってしまい、山内さんの制作するねぶたが1971年には1台減ってしまうこと、佐藤伝蔵さんは1971(昭和46)年に新たに青森青年会議所のねぶたを制作することになったことなどから、佐藤伝蔵さんが山内岩蔵さんを紹介したのかもしれません。本来であれば山田学園としては、佐藤伝蔵さんに制作してほしかったのではないでしょうか。また現在ではねぶたを出す団体は休むことなく毎年出陣していますが、この頃は多くの団体で出陣する年もあれば、出陣しない年もあったようです。
 ちなみに佐藤伝蔵さんが東青信用組合で制作したねぶたには、1968(昭和43)年に始めて田村麿賞(現在のねぶた大賞にあたります)を受賞した「草薙の剣」がありました。その後佐藤さんは毎年のように賞候補となったとされ、様々な名作を制作して田村麿賞を何度も受賞していくことになります。
 また学園ねぶたが始めて出陣する1年前の1970(昭和45)年、佐藤さん制作の「草薙の剣」がこの年に大坂で開催されていた日本万国博覧会におけるイベント「日本の祭り」に出陣して、その豪華絢爛な姿とともに全国にその名を知られることになりました。日本万国博覧会とは、「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、世界77ヵ国が参加したアジアおよび日本で最初の国際博覧会です。高度経済成長を成し遂げた日本の象徴的な意義を持つ、1964(昭和39)年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトでもありました。アポロ11号が持ちかえった月の石が展示されたことでも注目を集めましたね。このねぶたはその年の青森ねぶたにも東青信用組合から出陣しています。
 これらのことを見ていくと、東青信用組合のねぶたを受け継いだ学園ねぶたは、ねぶた名人佐藤伝蔵さんが名を成すきっかけとなった歴史あるねぶた団体を受け継いでいるのだとも言えますね。佐藤伝蔵さんはこの後、1983(昭和58)年と1985(昭和60)年に学園ねぶたを制作することになります。
山内岩蔵さんのねぶたで出陣
 さていよいよ青森大学のねぶたが出陣となったわけですが、青森大学の学生はもちろん青森短期大学の学生も学生も参加することになりました。田邊さんによりますとねぶた衣装は最初、白地に波柄で「青森大学」と書いたものだったそうですが、短大も参加しているのに短大の名前がないのはおかしいとの声があり、緑の唐草模様に「青森大学」「青森短大」と書いたものに変更になったそうです。今の水色の衣装は三代目だそうです。
 1977(昭和52)年は青森山田学園創立60周年の記念すべき年ですが、この4回目の「寿式三番叟」(ねぶたの題材も60周年を祝うという意味合いがあります)から、学園が中心になって全てをおこなうようになったそうです。田邊さんによりますと、当時は学友会が中心になって学生の手作りねぶたみたいな感じ(ねぶたはねぶた師によるものだが、それ以外は学生の手作りという意味)でいこうということで、当時は学生で参加しないものはいないというほどに学生がすごく盛りあがったそうです。ただし、隔年運行の頃はまだ学生の数も少なく、囃子方そのものも無くて、市内の駒込町会の子どもねぶたが終わった後、そこの太鼓叩きの方が3人ほど来て、学生は笛を持っているだけで(吹ける者がいないため)、笛に関してはエンドレステープを流していたとのことです。始めて本学の自前の囃子方ができたのは1989(平成元)年のことで、応援団が囃子方をやり、7月に商工会議所でやっていた観光協会主催の正調の囃子講習会に習いにいき、それから囃子が盛りあがるようになりました。そして1993(平成5)年には学生だけで囃子方ができるようになったそうです。
 やはりねぶたを実際に出すということは大変だということがわかりますね。大学の開学から遅れること3年後に始めてねぶたの出陣となったのも、上記のような様々な事情があってのことだったろうと思われます。
 このようにねぶたの囃子の完成はすこし遅れましたが、青森ねぶた祭りへの音楽演奏での参加は、実は学園ねぶたの参加より早かったのだそうです。田邊さんによると、学園ねぶたの参加以前から、全てのねぶた運行の先頭に青森山田高校の吹奏楽が参加しており、先頭の役員団が通った後に吹奏楽、ミスねぶた、そして全てのねぶたという順序で運行されていました。しかし1990年代に入って、学園ねぶたが田村麿賞やねぶた大賞を取るようになった頃、ねぶたに関係無い鳴り物がはいるのはいかがなものか、という意見が出て中止になったということです。
第三代ねぶた名人佐藤伝蔵さんのねぶたで出陣
 1983(昭和58)年と1985(昭和60)年の2回は、後にねぶた名人の称号を与えられた佐藤伝蔵さんによるねぶたで出陣しました。この当時、佐藤伝蔵さんは計三~四台のねぶたを制作していました。青森大学(隔年での出陣)と日立連合、日本通運、日本電信電話公社(1985年からNTT)です。これまで学園ねぶたは、当時市長賞といわれたいわゆる参加賞以外に賞には縁がありませんでした。しかし佐藤伝蔵さん制作ということで賞への期待が膨らんだそうです。しかし最高の賞である田村麿賞は、両年とも同じ佐藤伝蔵さんによる日立連合に持っていかれてしまいました。さらに佐藤伝蔵さんは2回目の学園ねぶたを制作した翌年の1986(昭和61)年に急逝されました。ねぶたを制作した最後の4年間は田村麿賞を独占している時であり、非常に残念なことでした。この後1987(昭和62)年、再び山内岩蔵さんのねぶたに戻りますが、ここまでが学園ねぶたの前半期と言っていいかもしれません。
竹浪比呂夫さんのねぶたで出陣
 1989(平成元)年から学園ねぶたが大きく変わることになります。自前の囃子方ができたことは前述しましたが、その他にねぶた制作が現在活躍中のねぶた師に変わったこと、隔年での出陣だったのが毎年の出陣に変わったことです。そして賞の獲得に関わってくるようになったことでした。
 1989年のねぶた師が山内岩蔵さんから現在活躍中の竹浪博夫(のち魁龍、現在は比呂夫)さんに替わったことと、学園ねぶたの出陣が毎年になった理由は、澤田繁親氏の『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』に記されています。即ち学園ねぶたが賞を取るためにねぶた師の千葉作龍さんにねぶた制作を依頼し、千葉さんが弟子である竹浪さんを紹介したこと、また1990(平成2)年から富士通がスポンサーにつくことになり出陣が隔年から毎年になったということです。ちなみに竹浪さんの大型ねぶたでのデビューは、1989年の学園ねぶたということになります。ねぶたの題名には「青春」という、これまでのねぶたに見られない言葉が入っていますが、これは当時の木村正枝理事長の、学生にふさわしい題材でということで、「青春」という題名になったそうです。そしてこの年、ついに本学が「跳人賞」を受賞することになります。
 田邊さんによると、この年は参加学生全員にガガシコを持たせたそうで、皆でガガシコをもって「ラッセラー、ラッセラー、ガガシコガンガン」とやらせたところ、満場一致で「跳人賞」の獲得となったのだそうです。ガガシコは近年あまり見かけなくなりましたが、ブリキのコップの浅くなったような形の器のことですね。昔は運行中にガガシコで水やお酒を飲んだりお握りを入れる器に使ったり、お囃子のときに叩いたりしていたものです。青森市出身の版画家で、かつて青森短大・大学で教えておられた佐藤米次郎さんが、青森大学出版部で出していた雑誌『青森NOW』の創刊号に「現代青森侫武多考」という記事を書いていますが、その中に佐藤さんの跳人の挿絵があり、ガガシコについて「ガガシコはブリキ製の打楽器だが、杯や食器の代用になる」と書いています。今はテブリガネが主流になっていますが、本来お山参詣の囃子に使われていたテブリガネは旧市内では使わなかったそうで、ガガシコが主に使われていたそうです。ガガシコをもう一度見なおしてみるのもいいかもしれません。
 田邊友俊さんには学園ねぶたの歴史について、貴重なお話を伺うことができました。この場を借りてお礼を申し上げます。次回は1990(平成2)年以降の学園ねぶたを見ていこうと思います。ねぶた師は現在も学園ねぶたの制作をしておられるねぶた名人北村隆さんです。いよいよ学園ねぶたが田村麿賞・ねぶた大賞を受賞することになります。田邊さんのお話は次回にも続きます。お楽しみに。
参考文献
佐藤米次郎「現代青森侫武多考」『青森NOW』創刊号 1971年8月
青森ねぶた誌出版委員会『青森ねぶた誌』青森市 2000年
青森観光協会創立50年記念事業実行委員会記念誌出版委員会編『青森観光協会50年史:1952~2001』青森観光協会 2001年
澤田繁親『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』ノースプラットフォーム 2004年

澤田繁親『竜の伝言 ねぶた師列伝』ノースプラットフォーム 2006年






 

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