学園ねぶたの歴史(後編その1) (2013年11月29日)

〈北村隆さんのねぶたで出陣〉
 今回は学園ねぶたの歴史後編です。1990(平成2)年から学園ねぶたの制作者が北村隆さんに替わり、現在まで続いています。今回も、学園ねぶたに最初から関わってきた、現青森山田学園ねぶた実行委員会の扇子頭である田邊友俊さん、並びに6代目ねぶた名人北村隆さんにお話を伺いました。
 学園ねぶたの運行が隔年から毎年に変わったのが1989(平成元)年から。竹浪博夫(のち魁龍、現在は比呂夫)さん制作のねぶたでの出陣でしたが、その翌年、ねぶた師は竹浪さんから北村隆さんに変更になりました。田邊さんによると、北村隆さんに決まるにあたっては以下のような経緯であったそうです。1990(平成2)年制作のねぶたも竹浪さんで、ということがなかなか決まらず、山田学園が当時竹浪さんの師匠であったねぶた師千葉作龍さんや、青森観光協会に誰かいないかと話を持っていったところ、手が空いていたのが北村兄弟であったということです。
 この決定については、北村さんによると、当時の青森山田学園理事長である木村正枝先生自らが北村隆さんのねぶた制作現場に直接依頼にきたとのことでした。この後、本来であればねぶた師の北村さんが、ねぶたの題材の案を出して、山田学園が決定するというのが一般的な流れです。しかし題材については、北村さんによると木村正枝先生が指定したということでした。題材は青森ねぶたの定番の一つ、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」でした。しかも1994(平成6)年の「宇治川の先陣あらそい(うじがわのせんじんあらそい)」まで、木村正枝先生が指定したもので、北村さんには本来ねぶた師が担当するべき題材を生み出す仕事は与えられていなかったそうです。
 皆さんは意外に思われるかもしれませんね。今でこそ田村麿賞、ねぶた大賞を始め、様々な賞を獲得し、第6代ねぶた名人にまでなった北村さんです。しかし前回のエッセイで述べたように、当時の北村さんは賞の獲得にはほとんど縁がありませんでした。ねぶた本体に関わる賞は、1981(昭和56)年に弟の北村明(蓮明)さんとの共作で制作賞を獲得したのみで、北村隆さん個人の制作では1992(平成4)年に、初めてコマツ青森から出した「道成寺(どうじょうじ)」で初めて市長賞を獲得しました。

〈木村正枝理事長のねぶたへのこだわり〉
 木村正枝理事長はどうも、ねぶたには非常にこだわりがあった方のようです。そういえば澤田繁親さんの『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』によると、竹浪さんも1989(平成元)年の学園ねぶたがデビュー作でしたが、その年に下絵は任されたものの「青春」という題名の指定があり、翌年の学園ねぶたの打合せ(結局実現しませんでしたが)では、題材は理事長が指定するということでした。こういったこだわりが、第3代ねぶた名人佐藤伝蔵さん亡き後の、1987(昭和62)年から1990(平成2)年までの山内岩蔵さん、竹浪博夫(比呂夫)さん、北村隆さんと、ねぶた師がめまぐるしく変わった理由かもしれません。
 もう一つ、木村正枝理事長のねぶたに対するこだわりを示すエピソードを、北村さんからうかがいました。1994(平成6)年の「宇治川の先陣あらそい」の制作現場でのことです。例によって題材は「宇治川の先陣あらそい」をやってほしいと理事長から指定がありました。この題材は平安時代末期の源氏と平氏の戦いでの出来事の一つです。源氏が平氏を倒す中で源氏方の主導権争いが起きました。源義仲と源頼朝の対立です。その結果京都の南、宇治川で源義仲の軍勢と源頼朝配下の源義経率いる軍勢が戦いました。この戦いの中で、源義経方の佐々木高綱と梶原景季(かじわらのかげすえ)が源頼朝から与えられた名馬生接(いけずき)・磨墨(するすみ)で宇治川を渡り、先陣を争ったという場面です。源平の戦いは青森ねぶたでも人気の題材ですが、この場面に登場する名馬がいずれも青森県東部の南部産の馬であるとされ、青森県とも関連のある題材と言えましょう。題材に馬を取り入れるのも人気があったそうです。ただし人物二人が馬に乗っている構図でもあり、北村さんにとっては非常に難しい注文でした。とにかくねぶたを作ってこれでいいかなと思っていると、理事長が現場に視察に来られ、ねぶたの武者に旗指物(戦場で武者が背中につける旗で、一種の目印になるもの)を追加してくれと注文を出したそうです。北村さんは旗をつけるとごちゃごちゃするし、あまりごちゃごちゃしたねぶたはだめだと思い、つけない予定でしたが、結局途中で旗をつけることになったそうです。注文主が下絵の段階でOKをだした後、制作途中になってさらに口をだすというのはまず無いことでもあり、北村さんはびっくりしたとおっしゃってました。このことも木村正枝理事長が、ねぶたに強いこだわりを持っていたことを物語っているように思います。
 この時期の学園ねぶたを見てみましょう。1990(平成2)年が、日本神話の日本武尊(やまとたけるのみこと)を題材にした「草薙の剣」。1991(平成3)年が、平安時代末期の源氏と平家の合戦から、那須与一(なすのよいち)を主人公にした「扇の的」。1992(平成4)年が、平安時代初期の東北地方を舞台にした、「新時代 坂上田村麿蝦夷平定(しんじだい さかのうえのたむらまろ えぞへいてい)」。1993(平成5)年が、歌舞伎ものから歌舞伎十八番の一つ、「鏡獅子(かがみじし)」。1994(平成6)年が、91年と同じく平安時代末期の源氏と平家の合戦から、「宇治川の先陣あらそい」。日本神話や源平の合戦、坂上田村麿はいずれも青森ねぶたの定番と言ってよい題材です。2013年の今年も日本神話では、立田龍宝さん(今年が大型ねぶたデビューでした)の「倭し美わし(やまとしうるわし)」(青森青年会議所)、柳谷優浩さんの「草薙の剣」(日本通運)などが日本武尊ものでしたし、千葉作龍さんの「古事記 日本創生」(サンロード青森)も日本神話が題材でした。また有賀義弘さんの「那須与一」(青森自衛隊)は源平合戦の那須与一、北村春一さんの「景清の牢破り(かげきよのろうやぶり)」も源平ものと言ってよいでしょう。坂上田村麿は、ねぶたの発祥伝説が、田村麿の蝦夷征伐の時に、敵をおびき寄せるためにつくったのがねぶたの始まりであるとされることや、この頃のねぶた大賞の最高賞が田村麿賞であることから、過去に何度もねぶたの題材に取り上げられています。ただし最近では、坂上田村麿は郷土青森の先祖を征服した侵略者であるということから、最高賞はねぶた大賞に改められ、ねぶたも坂上田村麿より、討伐される東北人の祖先である蝦夷(えみし)の人々がクローズアップされることが多いようです。歌舞伎を題材にしたものは、最近では少なくなってきています。今年のねぶたでは、諏訪真さんの「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」(ねぶた愛好会)などが歌舞伎ものですが、歌舞伎が昔と比べて縁遠くなっていることが、歌舞伎もののねぶたが少なくなっている原因かもしれません。例えば曽我兄弟の仇討という歌舞伎で人気の題材がありますが、青森ねぶたでは戦後から昭和60年代の半ばまで、ほぼ毎年と言ってよいほど制作されていましたが、今ではほとんど作られていません。歌舞伎が身近な娯楽ではなくなったとはいえ、少し淋しいような気がします。木村正枝理事長は1913(大正2)年の生まれですから、歌舞伎が身近にあった時代の人です。1993(平成5)年の「鏡獅子」も、そんなことから選んだ題材かもしれません。澤田繁親さんの『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』にも竹浪さんが2回目の山田学園のねぶたの題材を提示するにあたって、理事長が歌舞伎好きだと知って曽我兄弟を考えたと書かれています。
 以上のように、1994年までは北村隆さんが学園ねぶたを制作しましたが、そのねぶたはかなり注文主である木村正枝理事長の意向が反映されたものでした。しかしその最後の年の94年に、学園ねぶたは初めて念願の田村麿賞を受賞することになりました。

〈初めての、そして最後の田村麿賞の受賞〉
 1994(平成6)年、北村隆さん制作の「宇治川の先陣あらそい」で、学園ねぶたは青森ねぶたの最高賞である田村麿賞を初めて受賞し、あわせて2度目の跳人賞を受賞しました。
 北村さんによると、学園ねぶたとして初めて田村麿賞を取ったので、特に思い出深いねぶただそうですが、本当は別の団体で作ったものの方が個人的には好きだったそうで、まさか取るとは思っていなかった、びっくりしたというのが正直な感想でした。ただ北村さんは前年の1993(平成5)年に、「滝夜叉姫と太郎光国(たきやしゃひめとたろうみつくに)」(ダックシティ青森店)で初の田村麿賞を受賞しており、同じく93年の「象引(ぞうひき)」(コマツ青森)で商工会議所会頭賞を受賞と、北村さんの技量が評価されてきていました。学園ねぶたの田村麿賞受賞も時間の問題だったのかもしれません。
 ただし、田村麿賞はねぶた本体だけではなく、運行や跳人、囃子なども含めた総合賞です。学園の人たちも大いにバックアップしました。現青森山田学園ねぶた実行委員会の扇子頭である田邊友俊さんによると、この年のねぶたは非常にいいねぶたであったが、この頃には学園の囃子もある程度形ができていて、特に跳人の数がダントツであったそうで、特に青森大学の学生を始めとして、学園の跳人は元気だという評判がありました。特にこの時は跳人にかなり力を入れたそうで、そういうこともあって田村麿賞の受賞と跳人賞の受賞につながったようです。この年を境にして、学園ねぶたはほとんど毎年、賞に関わっていくことになります。
 ところでこの年の青森ねぶたの最高賞である田村麿賞は最後となり、翌年からは「ねぶた大賞」と名称が変更になりました。前述したように侵略者の名を郷土の祭りの最高賞に付けるのはいかがなものか、という理由でしたが、その結果学園の初めての田村麿賞受賞は、最後の田村麿受賞にもなりました。田邊さんによると最後の田村麿賞の獲得について、最後の賞だからもうどこからも取られることがないと非常に喜んだものだったそうです。また北村さんによると受賞の時はこれが最後の田村麿賞だとはわかってなかったそうです。
 この年からいよいよ北村隆さん制作の学園ねぶたが、ねぶた大賞を始め毎年のように賞を獲得していくことになるのですが、そのことは後編その2に続きます。

参考文献
青森ねぶた誌出版委員会『青森ねぶた誌』青森市 2000年
澤田繁親『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』ノースプラットフォーム 2004年
澤田繁親『竜の伝言 ねぶた師列伝』ノースプラットフォーム 2006年
青森ねぶたまつり ねぶた師北村隆公式ウェブサイト http://www.nebutakitamura.com/






 

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