青森短期大学 地域創造学科
教授 野﨑剛

はじめに:「学園ねぶた」出陣について

青森山田学園が青森ねぶたに出陣して今年で42年、通算33回目の出陣になります。

初めての出陣は、1971(昭和46)年で、「青森大学」の名前でした。青森大学の開学は、出陣に先立つ3年前の1968(昭和43)年ですが、『青森山田学園八十年史 ばら色の二十一世紀へ』(1997年発行)によると、「青森大学の開学を記念して出陣してから、今年で十八回を数えた」とあり、ねぶた出陣と大学の開学とが大きく関わっていたことがわかります。以来、1987(昭和62)年までは「青森大学」として隔年で出陣してきました。やがて、1989年の平成になってからは毎年の出陣を果たしてきています。そして2003(平成15)年からは、名前を変えて「青森山田学園」として出陣しています。

一口に42年間33回の出陣と言っても、今日まで続けてこられたのは、その間、本学園の学生、生徒、園児、教職員の皆さんは勿論、ねぶた師のご努力、そして何よりも、物心両面にわたって応援してくださった地域の方々の支えとご理解を得て、今日まで続けてこられたものと思います。

そこで、もう一度歴史ある「学園ねぶた」(現在は青森山田学園で出陣しているので、以下「学園ねぶた」と総称します)を見直してみるのも良いのではないかということで、これから数回にわたって青森ねぶたと「学園ねぶた」について見ていこうと考えております。

※ねぶた題名の( )内は青森山田学園創立八十年記念誌『青森山田学園八十年史 ばら色の二十一世紀へ』所収の学園ねぶたの題名です。

表を見ると学園ねぶたの流れは1989(平成元)年を中心に、前半と後半にわかれるような気がします。前半は隔年の出陣でしたが、後半になると現在も活躍中のねぶた師の手によるねぶたで、毎年出陣するようになりました。1989年は、ねぶた師の世代交代の時期といえましょう。特に1990(平成2)年からは北村隆さんのねぶたで出陣しており、今年で23年連続で北村さんが手掛けています。また様々な賞を受賞していったのも、後半の時期にあたります(最初の頃の市長賞は参加賞にあたるものでした)。

青森ねぶたの歴史

ところで、青森ねぶたは、どのようにして現在に至っているのでしょうか。すこし青森ねぶたの歴史について見ていくことにしましょう。
青森ねぶたは1980(昭和55)年、弘前ねぷたとともに国の重要無形民俗文化財に指定されました。今や日本を代表する祭りの一つと言っていいでしょう。その祭りの起源は、歴史的にははっきりとしておりませんが、少なくとも江戸時代から様々な発展を遂げ、現在の形になってきたと考えられています。

1. 江戸から明治

青森ねぶたに関する最も古い記録は、1842(天保13)年とされます。ただしその記録は、今年は青森ではねぶたが出なかった(『青森沿革史』)』とか、秋田県能代の七夕・ねむた流しを見て、これと同じものが津軽・弘前・黒石から青森の辺りにもあるそうだ(『奥の枝折』)、という内容でしかないのですが。ただ、さらに遡って1700年代の始め頃、青森市油川では弘前の真似をしてねぶたを運行したと解説するものもあるのですが、これは残念なことにどの史料をもとに述べているのか、出典が明らかではありません。とにかく、史料の上では少なくとも1800年代の始め頃には青森でもねぶた祭りがおこなわれていたとされています。

明治になると青森ねぶたは大型化し、1869(明治2)年には高さ11間(約20m)で、100人以上で担いだ(昔は担ぐのが一般的でした)ものが出たとされています(『青森沿革史』)。つまり現在の五所川原立佞武多と同じ位の巨大ねぶたが出ていたんですね。この時すでにねぶたの題材として、「牛若丸と天狗」とか、古代神話から「神宮皇后」といった現在の題材に通じる題材がつくられていたようです。

しかし1873(明治6)年から9年間、ねぶたは野蛮な風習であるとして、ねぶた禁止令が出された時もありました。その後、取締規則の下での運行が実施され、ねぶたのサイズも小型化していきます。1882(明治15)年には高さ約5.5 m、幅約4mまで、1898(明治31)年には、高さ約2.4 m以下で、4人以下で担ぐものとしました(実際は5 mくらいのねぶたが、その後も運行されたようです)。これらのことは市中に電線が張り巡らされたという社会状況も関係しており、青森だけでなく、全国の祭りの山車などが江戸から明治に巨大化しながら、その後再び小型化していったようです。

ちなみに、1871(明治4)年には青森に県庁が置かれ、1873(明治6)年には青函定期航路が就航し、1891(明治24)年には東北本線が全通、1894(明治27)年奥羽本線が開通、1898(明治31)年青森町が青森市にと、青森市が政治経済の中心として発展していった時期に当たり、青森ねぶたも盛り上がっていったことが伺えます。

.大正から戦前

それまで文字による記録はあっても絵などの記録はなかった青森ねぶたですが、大正から昭和になると写真の普及で、写真に写された青森ねぶたがかなり見うけられるようになります。また最近青森県立美術館で特集され話題になった、考現学を提唱した青森県出身の今和次郎さんの弟である画家の今純三さんが、昭和初期の青森ねぶたのスケッチや文章を『民俗藝術』(造形美術号 第1巻第11号)に「ネブタからオ山サンケまで」というタイトルで掲載しています。

しかし1937(昭和12)年から1945(昭和20)年まで、戦争の拡大とともにねぶたは中止になりました。ただし1944(昭和19)年に一度だけ戦意高揚のためとして運行されましたが。

.戦後の発展、ねぶた師の貢献

戦後復活した青森ねぶたは、1947(昭和22)年に「戦災復興港祭り」としておこなわれ、以後「青森港祭り」という名称で開催されて、1958(昭和33)年に「青森ねぶた祭り」となり、現在に至っています。戦後のねぶたは再び大型化していくことになります。もちろん電線が撤去されたわけではありませんから、限られた範囲でいかに大きくねぶたを見せるかという方向に、です。運行に広い道路が利用されたことで横幅が広くなったといわれ、また本来、ねぶたの土台部分にあった高欄や額、開きといった装飾が取り払われたため、より大きな迫力あるねぶた人形が制作できるようになりました。それまで縦方向に高かったねぶたが、今見るような横に長いねぶたに変化していったのです。

人形型のねぶた(組ねぶた)は弘前や五所川原、黒石などでも見られますが、青森のねぶたはやはり青森独自の構造を特徴として発展し、戦後になって完成したと言えます。青森ねぶたの完成には、ねぶた師と呼ばれるねぶた制作者の方々の技術と工夫も大きく貢献しています。現在「ねぶた名人」の称号をもつ北川金三郎さん、北川啓三さん、佐藤伝蔵さん、鹿内一生さん(いずれも故人)をはじめ、優れたねぶた師が輩出し、ねぶたに魂を込めて現在の青森ねぶたが確立されたのです。現在大型ねぶたを制作しているねぶた師は、これらの「ねぶた名人」の弟子や孫弟子の世代の方々です。特に今年は千葉作龍さんと、「学園ねぶた」を制作している北村隆さんが22年ぶりに名誉ある「ねぶた名人」に認定されることになりました。お二人ともおめでとうございます。最近若いねぶた師が活躍するようになったことと合わせて、青森ねぶたも新しい時代に入ったと言えるのかもしれません。

さいごに

「学園ねぶた」も、国の重要無形文化財である「青森ねぶた」の伝統を受け継ぎつつ、新しい試みも取り入れて、その歴史を刻んでいます。例えば、今年の「学園ねぶた」は第6代「ねぶた名人」北村隆さんによる「卑弥呼(ひみこ)と狗奴国(くなこく)の戦い」です。卑弥呼といえば日本古代3世紀の邪馬台国の女王です。日本神話はもちろん、最近では縄文時代が取り上げられることは多いのですが、邪馬台国の時代が題材として取り上げられるのは、はじめてのことです。はたしてどんなねぶたになるのか楽しみですね。

参考文献:
学校法人青森山田学園創立八十年記念誌発行委員会『青森山田学園八十年史 ばら色の二十一世紀へ』青森大学出版局 1997年
青森ねぶた誌出版委員会『青森ねぶた誌』青森市 2000年
青森観光協会創立50年記念事業実行委員会記念誌出版委員会編『青森観光協会50史:1952〜2001』青森観光協会 2001年