第6代ねぶた名人北村隆さんについて

前回は1989(平成元)年、竹浪博夫(のち魁龍、現在は比呂夫)さんのねぶたでの出陣までをお話しました。この年から学園ねぶたは、隔年での出陣から毎年の出陣になりました。ねぶた師も現在活躍中の方が制作するようになるとともに、賞の獲得にも関わるようになってきました。特に1990(平成2)年以降は、現在に至るまで北村隆さんが学園ねぶたを制作し、何度も青森ねぶたの最高賞を受賞したことはご存知かと思います。
今回からは順序として、1990(平成2)年以降の学園ねぶたについて見ていくことになるのですが、1990年以降は学園ねぶたの歴史の中でも最も重要な時期です。青森ねぶたの最高賞である田村麿賞・ねぶた大賞を6回受賞(そのうち3回は連続受賞)、運行や跳人に関する賞も6回受賞しています。そこで1990年以降の学園ねぶたに触れる前に、その時期に学園ねぶたを制作し、昨年には第6代ねぶた名人の称号を与えられた、ねぶた師師北村隆さんについてお話しようと思います。実際に北村隆さんから貴重なお話を伺うことができたので、その内容を交えながら、北村さんがねぶた師の弟子として修行を始め、やがて学園ねぶたを制作するまでを追っていくことにします。

ねぶた師北川啓三の弟子となる

北村隆さんは1948(昭和23)年、青森市で双子の兄として生まれました。弟は、同じくねぶた師の北村蓮明さんだということは皆さん知ってますよね。小学校4年生の時には、お兄さんや弟と友に町内ねぶたを作り始め、1962(昭和37)年、中学2年生の時に当時ねぶたの神様といわれ、後に第2代ねぶた名人となるねぶた師北川啓三さんの弟子になりました。北川啓三さんのお父さんは初代ねぶた名人の北川金三郎さんです。ですから北村隆さんは初代名人の孫弟子でもあるわけです。
北村さんに北川啓三さんについて伺ったところ、北川さんは青森ねぶたの基本をつくった人であるとのことでした。例えば今の青森ねぶたの特徴の一つであるザンバラ髪、乱れて風になびくようなヘアースタイルですが、これを紙と骨組みでつくってねぶたに躍動感を与えたのが北川啓三さんだそうです。始めはねぶたの重要な部分である面(顔)が見えないとか批判があったそうですが、その発想はすごかったといいます。
弟子に対する教育はどうだったのでしょうか。北村さんによると、教え方は理屈では教えない、昔の職人だから、とにかく見て覚えろという感じだったそうです。また弟子に対しては、始めから実際にねぶたを作らせるそうで、とにかくまずは好きなように、自分で手を動かしてやってみろという。ただしその時点では作り方は教えない。始めは簡単な刀の部分などから始め、その後難しい手の部分などをつくらされる。手の部分はつくる順序があるそうで、それを知っていないといくらやってもうまくはできない。とにかく弟子に自分自身で考え、悩みながら、自分の手を動かして作らせるようにしました。そしていよいよダメだという時になって、始めて師匠が来て教えてくれるというやり方だったそうです。好きなように弟子自らに作らせるのは、自分なりに考えさせるためだったそうで、北村さんもすごく悩み考えてつくったとのことです。北村さんは「今考えれば、その教え方はすごくいいと思う、考える力を養わせてくれた。逆にあまり手にとって教えるやり方だと忘れてしまい、身につかない」とおっしゃっていました。そして北川啓三さんは、できたものについてはものすごく誉めてくれたそうです。「よくやった、たいしたものだ」と。北村さんも誉められると、やる気が出てくる。やる気があれば、なんでもやらしてくれる、北川啓三さんはそんな師匠だったようです。

北村兄弟、青森ねぶたの大型ねぶたを制作

北川啓三さんに弟子入りして4年後の1966(昭和41)年、北村隆さんは弟の明さん(現在は蓮明さん)とともに、初めて北村兄弟の名で青森青年会議所の大型ねぶたを制作し、青森ねぶたにデビューします。題名は昔の青森ねぶたでは定番の一つである歌舞伎の曾我ものから「曾我五郎小林朝比奈草摺引(そがごろう、こばやしあさひな、くさずりひき)」でした。さらに3年後の1969(昭和44)年には兄の健一さんも加わって、青森市勤労青少年サークル連絡協議会の大型ねぶた「王進と九紋龍(おうしんとくもんりゅう)」を制作します。

ねぶた師佐藤伝蔵のもとで学ぶ

しかしこの後、北村兄弟は8年間大型ねぶたの制作から離れることになりました。この頃北村さんは北川啓三さんの所を卒業して、佐藤伝蔵さんの所でねぶた作りを教わっていたそうです。佐藤伝蔵さんも、後に第3代ねぶた名人を授与されたねぶた師で、北川啓三さんと同じく初代ねぶた名人の北川金三郎さんの弟子でした。
佐藤伝蔵さんの教え方は、北川啓三さんとは逆の教え方で、始めからつくらせない、まずは何故これがこういう風になるのかといった、理論的なことを重んじたそうです。教え方は正反対でも、これもすごく勉強になったそうです。例えば細かい計算をしてねぶたをつくる方法があります。計算とは、ねぶた全体のうち面(顔)にの比率がどれだけ、面に対して腕はどれだけ長いかとか、腕に対して手の大きさ、足の長さはどれだけだとか、そういうことを計算してねぶたをつくることを教わりました。
北村さんは北川啓三さんと佐藤伝蔵さんの教えの両方を取り入れており、そのうち特に構図的なことは佐藤伝蔵さんの影響を受けています。例えば佐藤伝蔵さんは構図的に新しい発想をどんどんねぶたに取り入れました。また誰もやったことのない技術とか、中間色の使い方とかも編み出しており、その作風は自由さがあり、失敗を恐れなかったそうです。一方、北川啓三さんは職人気質があり、ねぶた作りにもこうでなくてはいけないというこだわりがあったそうです。

ねぶた名人について

すこし本題の学園ねぶたから話はそれますが、初代から3代目までのねぶた名人の話が出てきましたので、その他のねぶた名人についても北村さんにお話を伺いました。
第4代ねぶた名人の鹿内一生さんは青森市内荒川の出身で、「我生会」というねぶた師の制作集団を立ち上げ、その弟子の方たちが現在も活躍中です。北村さんは直接教えてもらったことはないものの、ダイナミックなねぶたをつくるねぶた師だった。誰も作ったことが無いような、人形部分を非常に大きくしたねぶたを作り、前に出た手などを極端に大きくして遠近法を取り入れたりした。渇筆というかすれのある墨の使い方が荒々しさを感じさせ、その迫力もすばらしかったとのことでした。
第5代ねぶた名人の千葉作龍さんは、北村さんと同じく昨年ねぶた名人を授与されたました。北村さんとは2歳違いですから、ほぼ同年代と言っていいでしょう。北村さんによると、代表作は歌舞伎の重要な演目の一つである「暫(しばらく)」。ちなみに千葉さんは「暫」を1969(昭和44)年、1975(昭和50)年、1994(平成6)年と3回制作しており、1975年のものは最高賞である田村麿賞を受賞しました。千葉さんのねぶたについては、あまりごちゃごちゃした、動きのあるようなねぶたはつくらない。そういう作り方をすることで模様がはっきりする。あまり動きがあるとねぶた自体がはっきりしなくなる。ねぶたは遠くから見てはっきりしなくてはいけない。遠くから見てはっきりしたねぶたは、墨の線や模様がはっきりして華麗に見える、そういうねぶたを作る人だ、とのことでした。年齢も近いので、ねぶた作りに関して話し合ったりするのですかと伺ったら、若いときは結構したが、今は酒を飲んでも一切しないということでした。
第6代ねぶた名人の北村さんご自身についてもお聞きしました。まずねぶた名人となった感想については、名人になったからといって、以前とは特に変わることはないということでした。ねぶた師北村隆については、これからも斬新さを求めていきたい、また苦労するねぶた、手のかかるねぶたをつくっていきたい。こんなことやってもあまり意味が無いんじゃないかということも、自分ではわかっているのだが、ついついやってしまう。苦労しないとねぶたをつくった気がしない。2007(平成19)年にねぶた大賞を受賞した学園ねぶた「聖人 聖徳太子」では千手観音のねぶたを作ったが、制作に苦労した。それでもやはり作ってしまうんだとおっしゃっていました。
なお初代ねぶた名人の北川金三郎さんについては、あまり記憶がないとのことでした。北川金三郎さんは1959(昭和34)年にねぶた名人の称号を授与され、その翌年には他界されました。北村さんが10歳の時の1958(昭和33)年が、北川金三郎さんの最後のねぶたが出陣した年でした。その2年前から北川金三郎さんのねぶたは一台のみになっていたので、そんなに印象に残っていないのかもしれません。

北村兄弟、青森ねぶたに復活

余談が長くなりました。ねぶた師北村隆さんの話に戻します。北村さんが青森ねぶたに復活したのは1978(昭和53)年、弟の明(現在は蓮明)さんとともに制作した青森県板金工業組合の「日本武尊熊蘇退治(やまとたけるのみこと、くまそたいじ)」でした。その後、兄弟での制作を続け、1981(昭和56)年には青森県板金工業組合の「鬼神お松(きじん、おまつ)」で初めて受賞。制作賞での受賞ですから、ねぶた師としての力量が評価されたと言っていいでしょう。しかしまだこの頃は、後年の受賞歴と比べると、受賞が身近になったわけではなく、北村さんが学園ねぶたの制作を始めるまで、受賞はこの1回のみでした。この頃の心境をあらわすことばが、1983(昭和58)年の『月刊キャロット別冊「ねぶた」PART10』のねぶた師座談(北村隆さん、千葉作龍さん、穐本鴻生さんと司会が澤田繁親さん)で、北村さんの口から語られています(この座談会は澤田繁親さんの『竜の伝言 ねぶた師列伝』にも収められています)。1981(昭和56)年の制作賞受賞について「…前の年まで制作賞と田村麿賞と、くっついていたわけ、小屋に行ったら、何だかもらったって。(制作賞だけで)田村麿賞ないんだよね。がっくりした感じだったものな(笑)。何だか落ちたような感じだったな」、また田村麿賞を受賞については、「最近は、どうせもらえないんだっていう諦めがきて」と語っています。
1984(昭和59)年には北村兄弟はそれぞれ別のねぶたを制作するようになります。北村隆さんは青森県板金工業組合と青森市PTA連合会のねぶたを制作、その3年後の1987(昭和62)年からはJRと青森市PTA連合会を制作します。そして1990(平成2)年、いよいよ青森大学のねぶた「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を北村隆さんが制作することになるのです。

今年の学園ねぶた「水滸伝 燕青と李逵」

北村隆さん制作の学園ねぶたの歴史は、次回にまわすことにして、最後に今年の学園ねぶたについてすこし触れておきます。もう皆さんご存知だと思いますが、2013(平成25)年の学園ねぶたは「水滸伝 燕青と李逵(すいこでん えんせいとりき)」。水滸伝は、中国は宋の時代末期(西暦1100年頃)に梁山泊というとりでを拠点に活躍した108人の豪傑たちの話を題材にした物語です。日本でも昔から広く読まれ、豪傑達の絵が浮世絵師たちによって描かれてきました。青森ねぶたにおいても、昔から代表的な題材の一つとして人気がありました。北村さん自身、過去に水滸伝から史進(ししん、1969年)、張順(ちょうじゅん、1996年)、魯智深(ろちしん、1997年、2008年)、燕青(2000年)を取り上げています。特に燕青は今年で2回目になりますが、相撲の達人で梁山泊一の伊達男である燕青は、北村さんが個人的に好きな豪傑だそうです。北村さんは2000(平成12)年、「燕青、瓦投げつける(えんせい、かわらなげつける)」(JRねぶた実行委員会)を出していますが、今回の学園ねぶたは、物語の上では、その直前の場面にあたるそうです。2丁の斧を持つ暴れ者の李逵も好きな豪傑の一人で、前からずっとやってみたいと想っていたとのこと。ねぶたは奉納相撲の試合で優勝候補を破った燕青に、李逵が加わって大暴れをする場面で、見所は、燕青が持ち上げた柱にカーテンが巻きついているところが構図的に面白いのではないか、ということでした。また二人の豪傑の、伊達男と強面の対比も面白いのではないでしょうか。それでは今年の学園ねぶたをお楽しみに。

参考文献
青森ねぶた誌出版委員会『青森ねぶた誌』青森市 2000年
澤田繁親『竜の夢 ねぶたに賭けた男たち』ノースプラットフォーム 2004年
澤田繁親『竜の伝言 ねぶた師列伝』ノースプラットフォーム 2006年
青森ねぶたまつり ねぶた師北村隆公式ウェブサイト http://www.nebutakitamura.com/